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借金100億円をゼロにした崎陽軒・野並直文社長 横浜名物「シウマイ」を救った“2つの変革”とは?崎陽軒・野並社長、経営を語る【前編】(1/3 ページ)

» 2021年06月18日 15時24分 公開
[伏見学ITmedia]

 1989年12月29日。日経平均株価は史上最高値の3万8915円87銭を記録し、日本中が狂喜乱舞した。しかし、喜びもつかの間。その日をピークに日本経済は崖から一気に転げ落ちていき、92年3月には2万円台を割り込む事態となった。

 バブル崩壊である——。

 「売り上げはどんどん落ち、借金はふくらんでいく。このままでは会社がつぶれると思った」。横浜名物のシウマイを手掛ける崎陽軒の野並直文社長は、30年近く前に味わった切迫感を今でも鮮明に覚えている。

バブル崩壊後の危機感を振り返る崎陽軒・野並直文社長

 日本経済を襲った大不況は、次々と企業を飲み込んでいった。東京商工リサーチの調べでは、90〜92年の企業倒産件数は3万社を超え、負債総額は約17兆7461億円に上る。

 その渦中の91年、野並社長は父の後を継ぎ、42歳で崎陽軒の3代目社長になった。厳しい景況にもかかわらず、就任して3年間は売り上げが好調だった。「意外と平気ではないか?」という考えが頭をよぎった矢先、業績が一気に冷え込んだ。

 さらに、間が悪いことに、横浜駅前の本店ビル建設プロジェクトが走っていて、社長就任時にはすでに20億円の借入金があった。その後も、工場の移転などいろいろな設備投資が重なったため、ピーク時には借金が100億円を超えた。

横浜駅前にある崎陽軒本店

 「会社がもたない……」。危機感を募らせた野並社長は大胆な経営改革に踏み切った。人事、販売、商品開発など、次々とテコ入れした。こうした取り組みが功を奏し、十数年かけて、ついには借金を帳消しにした。

 それだけでは終わらない。筋肉質な経営基盤に刷新したことで地力がつき、新型コロナウイルス発生前までの数年間は過去最高の売り上げを更新し続けたのである。

 当時の“新米社長”の思い切った行動によって、社員との間に多くの軋轢(あつれき)が生じたが、この変革がなければ、今の崎陽軒はなく、横浜名物のシウマイも過去の遺物となっていたかもしれない。

 野並社長はどんな手を打って、窮地を脱したのか。改革の中身を追った。

ぬるま湯からの脱却

 90年代半ば、崎陽軒が業績悪化の一途をたどる中、野並社長が何よりも先に手をつけたのは、「ぬるま湯的な体質」を壊すことだった。

 野並社長の危機感とは裏腹に、社内を見渡すと、現状を変えようとする意識や動きはなかった。いや、厳密にいうと、変化に対応できないほど、組織が硬直化していたのである。その一因が「典型的な古い、年功序列型の人事制度」(野並社長)にあったという。

 黙っていても給料は上がるため、無理に頑張ろうとはしない。加えて、先代社長があらゆる物事に対して率先して動き、一人で切り盛りしていた経営スタイルだったこともあり、社員はただついていくだけという、甘えのような習慣も染み付いてしまっていた。

 野並社長はそこに深くメスを入れた。「人事制度を変えることが、これまでの社長人生の中で一番苦労しました」と明かす。

「シウマイ弁当」(写真提供:崎陽軒)
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