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高橋名人が明かす「裏技」誕生秘話 私が「冒険島」になった理由高橋名人の仕事哲学【中編】(1/6 ページ)

» 2019年11月29日 05時00分 公開
[河嶌太郎ITmedia]
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 かつて、テレビゲームは子どものおもちゃとして遊ばれてきた。ファミコンの発売から36年。近年では2016年に発売された「ミニファミコン」をはじめ、17年発売の「ミニスーパーファミコン」、19年9月19日発売の「メガドライブミニ」、20年3月発売予定の「PCエンジンmini」など、昔のゲームの復刻版が登場する動きが相次いでいる。テレビゲームは今や、子どもだけでなく大人も遊ぶエンタメになった。

 そんなテレビゲームの「名人」と呼ばれた男がいたことを覚えているだろうか。ハドソンの広報・宣伝マンを務めていた、「16連射」で名高い高橋名人だ。在職中は「名人」として全国各地を渡り歩き、テレビゲームの普及活動に務めただけでなく、「裏技」「ゲームは1日1時間」という言葉の考案者の一人でもある。現在では国内eスポーツの振興にも注力している。

 今回、名人本人がITmediaビジネスオンラインの取材に応じた。中編では、いかにしてファミコンの「名人」になったのか、「裏技」という言葉はどうやって生まれたのか。その誕生秘話をお届けしよう。

phot たかはし・めいじん 1959年、北海道生まれ。1982年にハドソン入社。ゲームの営業から開発まで様々な業務に携わるなか、1985年に「第1回全国ファミコンキャラバン大会」のイベントにて「名人」の称号を確立。以降、当時のファミコンブームを追い風に「ファミコン名人」としてTV・ラジオ・映画に出演。一世を風靡し、子どもたちのヒーローとして大人気を博した。高橋名人をキャラクターに使用したゲームに「高橋名人の冒険島」シリーズがある他、関連書籍、レコード、CDなども多数。特技にゲーム機のコントローラのボタンを1秒間に16回押す「16連打」がある。著書に『高橋名人のゲーム35年史 』(ポプラ新書)など(撮影:山本宏樹)

短大を中退してスーパーの店員に

――名人はどのような経緯で、ハドソンというゲーム会社に入社したのですか。

 私がハドソンに入社したころ、本社が札幌にありました。実は私も札幌出身で、地元の企業だったから入社した、といういきさつはあります。でも、学校を出て最初からハドソンに入社したわけじゃありません。

 高校を卒業したのち、大学への進学は考えていなかったのですが、親から簿記の勉強をしろと言われ、当時簿記が学べる課程があった豊平区にある北海道自動車短期大学(現:北海道科学大学短期大学部)に入学しました。入学はしたんですが、結局つまらなくて……。自動車短大だったので車の普通免許だけは取ろうと思いました。そのときに同級生からバイトしないかってことで声をかけられたのがスーパー、札幌フードセンターだったんです。

 そこの青果部で働き始めたら、いろいろ面白いなと思いました。短大のほうは、入学して2、3カ月で中退しちゃいました。

――名人の最初の仕事はスーパーの店員だったんですね。

 札幌フードセンターではアルバイトとして8カ月間働いたのちに、そのまま社員として3年間、働きました。入社後、岩見沢に転勤になり、働き始めて3年目の1981年に札幌に戻ってきました。そのとき街の中をぶらぶらしていたら、パソコンショップが目に入り、中に入ってしまったんですね。当時はマイコンショップと呼ばれていました。そしたら、そこにキーボード付きのパソコンが並んでいたというわけです。

 なぜ入ってみようと思ったか。もともと私は「ウルトラQ」や「ウルトラマン」が大好きな少年でした。こうした作品の中でいかにもすごそうにコンピュータが出てくるのですが、これを見てコンピュータへの憧れというものがあったんですね。

 もともと行きつけの喫茶店でインベーダーゲームをやっていたので、ゲームやプログラムがどんなものかは何となく分かっていました。そこでショップの店員から「これでプログラミングができていろんなことができるんだよ」って説明されて、思わず買おうって思ったんですね。シャープの「MZ-80B」という機種だったのですが、値段が27万8000円もしました。

phot シャープ「MZ-80B」(Wikipediaより)。名人は最初の設定の仕方が分からず、そのまま放置。1週間ぐらいでホコリをかぶり始めることになった
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