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なぜ、「日本的人事戦略」は機能しなくなったのか?「終身雇用」「年功序列」終焉の理由に迫る(1/4 ページ)

» 2019年06月11日 08時00分 公開
[白川克ITmedia]

この記事はケンブリッジ・テクノロジー・パートナーズでバイスプレジデントを務める白川克氏のブログ「プロジェクトマジック」より転載、編集しています。


 経団連やトヨタの経営陣が「終身雇用を維持するの無理無理」と言い始め、実際に大企業で45歳以上のリストラ(大幅な配置転換や退職勧告)がニュースになるなど、「日本的人事戦略」についての議論が盛り上がっている。

※実際には、これらは、“人事戦略”というよりは、“人事慣行”くらいのものだと思っている。が、ここでは一般的な人事戦略という言葉を使う。

 僕は1996年に社会人になった。そして日本的人事戦略が変容していく様子を一般的なサラリーマンよりも半歩前に経験してきたように思う。そこで本記事では、「経営環境の変化」「日本企業の人事戦略の変化」「僕の仕事人生」の3つを点描することで、「日本的人事戦略が日本企業にもたらしたもの」を考えてみたい。

 統計的裏付けのない、あくまで僕のキャリアからの視点なので、バイアスもあろうかと思う。ただ、その分、生々しく、分かりやすいのではないだろうか。

Photo 日本の人事制度が通用しなくなった理由とは

1. 失われた30年前夜

 バブル期を含め、景気拡大期は事業が素直な伸び方をするので、業績拡大(売上利益の向上)のためには、「おのおのの持ち場で各位努力する」が最適解であった。開発は良い製品を作り、製造は1円でも安く作り、営業は売りまくる――そういうイメージだ。

 そういう経営環境で人事に課せられたミッションは、

  • とにかく標準以上の能力の人材を集める
  • 能力とモチベーションの平均を上げる(特にモチベーションが成果に直結した)
  • それを場所や年齢が変わっても維持してもらう

というものであった。つまり「8割の社員をやる気満々にすること」が人事の最重要課題だったわけだ。

 その最適解が年功序列と終身雇用である。その中でも、モチベーション維持のために特に重要なのが、昇進と待遇を同期横並びにすることだった。

 逆にいうと、同期と差をつけられた人のモチベーションはダウンする。20年前(入社4年目くらい)に、ある日本的経営の会社に勤めていた友人が「同期より給与が低かった。そういうことやる会社なんだ、と嫌気がさした」とぼやいていたのを覚えている。

2. 1995年〜2005年ごろ:人材の流動化スタート

 このころから、日本経済における外資企業の存在感が増したように思う。貿易摩擦への対応から、外資に門戸を開いたこともあるだろうし、バブル後の日本企業の停滞、そして単純に世界がボーダーレス化していったことの一つの側面でもあっただろう。

 これらの外資企業は、中途採用がメインだった。そもそもじっくり人材を育てるよりは優秀な人を良い待遇で雇うことに(日本企業より)ずっと慣れていたし、新卒採用市場で優秀な人材を確保しづらかった、という消極的な理由もあったと思う。

 その結果として、人材の流動化が少しずつ進展した。「会社が潰れた」といったネガティブな理由ではなく、キャリアアップのための転職(特に外資への転職)が広まったのは、ようやくこのころだったと思う。

3. 高度成長から複雑な世の中に

 1990年代後半というのは、日本はバブルの後処理に追われていたが、もう少し長いスパンの「高度成長期の終焉」という転換の時期でもあった。

 高度成長が終わると、1.で述べた「量の拡大と利益/利益率の拡大の相関」が薄れる。つまり「とにかくシェアを取るのが正義」という時代ではなくなっていった。工場が1円でも安く作り、営業が売りまくれば利益はついてくる――という感じではなくなったということだ。

 これは人事戦略でいうと、「みんな頑張れ作戦」の有効性が薄れたということ。みんな引き続き頑張っているのに、うまく利益が上がらない会社が増えた。それは単に景気サイクルのせいというよりは、「競争の質が変わった」から起きた現象だ。

 もちろん、このあたりは「今思えば」という話であって、当時はまだ「景気サイクルの谷間にすぎない。すぐに景気はまた良くなるだろう」「不良債権処理が終われば良くなるだろう」といわれていた。だが実は、ここでゲームのルールが変わっていたのだ。

4. ITの存在感がアップ

 1990年代後半から2000年代にかけての環境変化でもう一つ重要なのは、インターネットなど、産業全体に対するITの存在感が増したことだ。「ITをビジネスに生かせるか否か」が業績を左右するようになってきた。

 このころ「IT革命」というバズワードが踊ったが、単なる“はやりすたり”ではなく、本質的な変化をビジネスにもたらした。僕は1990年代後半はSE(システムエンジニア)、2000年代前半はITコンサルタントをしていたので、特にそれを実感していた。

 ところで、IT業界は、1990年頃までは「労働集約産業」などとやゆされていた。プログラミング言語が十分発達していなかったので、複雑なシステムを作るにはCOBOLを1万行書く、そのためにプログラマーを100人集める、といった人海戦術が不可欠だったからだ。

 2000年ごろを境に、言語の発達やERP(統合基幹業務システム)を始めとしたパッケージソフトの普及により、労働集約産業からようやく(本来の)知識集約産業に脱皮することができた。つまり、世の中にあるものを“イイ感じ”に組み合わせればそんなに人手をかけなくても済むようになったというわけだ。

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 “イイ感じ”に組み合わせるのはCOBOLをゴリゴリ書くより難しいので、「少数の優秀な人」の価値が相対的に上昇した。優秀なエンジニアは普通のエンジニアよりも生産性が10倍、なんてことはざらに起こる。そもそも、ザコが100人いても良いシステムは作れないのだから、生産性以前の話だったりする。

 以前、「複雑な計算エンジンが同じ機能なのに2つ実装されているクソシステム」に出会ったことがあるが、これは優秀なエンジニアがアーキテクチャ設計をしなかったばかりに、2億円くらいの損害を出している例だ。「優秀かそうじゃないかで、ビジネスに億円レベルのインパクトがある」というのはエンジニアだったら誰もが実感しているだろう。

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