NHK大河ドラマ「麒麟がくる」に登場 古い権威を無視し、あえて将軍にならなかった織田信長のリーダー論征夷大将軍になり損ねた男たち【前編】(1/3 ページ)

» 2020年01月18日 04時00分 公開
[二木謙一ITmedia]

 撮り直しで巷(ちまた)の話題となった大河ドラマ「麒麟がくる」(長谷川博己主演)は、1月19日から放送開始だ。主人公・明智光秀は、「裏切り」の三文字が付きまとい大方のイメージは悪い。だが、足利将軍の権威が失墜した戦国時代は文字通り「下剋上」の時代であり、天下人を目指す人物が登場してもおかしくはなかった。武家の最高位といえば「征夷大将軍」であるが、光秀も本能寺の変の後に、実は将軍宣下を受けていたとする説もある。

 これまで「花の乱」や「軍師 官兵衛」など14作品のNHK大河ドラマの時代考証を担当してきた著者による異色の人物日本史、近刊『征夷大将軍になり損ねた男たち――トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』(二木謙一編著、ウェッジ刊)では、光秀をはじめ、人望、血統、派閥、不運、病魔、讒言(ざんげん)などの理由で、将軍になり損なった47人の人物をクローズアップ。どの事例も歴史ファンに限らず、組織の中に生き、閉塞感漂う時代に好機を見いだしたいビジネスパーソンにも通じることばかりだ。

 この連載では大河ドラマに出演する人物の中から、まずあえて将軍の座に就かなかった織田信長について取り上げる。

photo 織田信長はなぜあえて将軍にならなかったのか?(Wikipediaより)

着々と天下布武に向かう戦国の風雲児

 織田信長は、永禄3年(1560)5月に、駿河の戦国大名今川義元を桶狭間の戦いで討ち取ったことで、前途が大きく開けた。

 永禄10年には美濃を併合して「天下布武(てんかふぶ)」の印を用いるようになり、翌永禄11年9月7日には、13代将軍義輝の弟義昭を擁して上洛の軍を起こした。南近江の六角氏を破り、京の三好三人衆の軍勢を駆逐し、9月26日に義昭とともに入京した。

 10月には義昭が15代将軍の座に就き、以後の信長は義昭を傀儡(かいらい)として利用していった。元亀元年(1570)6月に、織田・徳川の連合軍は姉川の合戦で浅井・朝倉の連合軍を破り、元亀2年9月には比叡山を焼き討ちして着々と支配地を拡大していった。将軍足利義昭は信長の傀儡にあきたらず、信長と敵対するようになった。信長は元亀4年の槇島城の戦いに勝利して義昭を畿内から追放し、室町幕府は実質的に滅亡した。

 しかし、足利義昭は征夷大将軍を解官されたわけではなく、信長の勢力圏外では依然として足利将軍としての権威を有していた。

 天正3年(1575)に、織田・徳川の連合軍は長篠の戦いで武田勝頼に勝利すると、信長は右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には安土城の築城も開始した。

 天正8年、長きにわたった大坂の石山本願寺との石山合戦に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃えを行って、その勢威を誇示している。天正10年には、長篠の戦いで壊滅的な打撃を与えていた武田勝頼を滅ぼす甲州征伐を行い、武田勝頼を天目山で自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを従属させるようになった。

photo 織田信長が天下布武(てんかふぶ)を押しすすめるための拠点とした岐阜城(Wikipediaより)
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