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令和の典拠『万葉集』 中西進が語る「魅力の深層」【前編】今読まれるべき「大和のこころ」(1/5 ページ)

» 2019年04月18日 05時00分 公開
[中西進ITmedia]

 新元号「令和(れいわ)」の典拠である『万葉集』に注目が集まっている。「令和」は万葉集の梅の花の歌三十二首の序文にある『初春の令月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす』から引用されたものだ。確認される限りにおいて、初めて漢籍ではなく日本の古典(国書)からの選定だとされている。

 本記事では万葉集研究の大家である国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏の著作『万葉を旅する (ウェッジ選書17) 』の第1部「万葉の古代空間」から、万葉集の魅力をあますところなくお届けする。中西氏本人による貴重な考察だ。

 万葉集は7世紀後半から8世紀後半にかけての歌を中心に編まれた日本に現存する最古の和歌集だ。天皇、貴族だけでなく下級官人や防人、漁師、大道芸人などさまざまな身分の人々が詠んだ歌を4500首以上も集めている。当時の人々が何を考えて生き、働いてきたかを知ることによって、現代に生きる私たちの生き方や働き方を見つめなおすヒントにすることもできよう。

phot 吉野の桜の山(写真提供:ゲッティイメージズ)

死と再生――吉野・二上山

 大和を「やまと」(山処)とよぶのは、いうまでもなくこの国が山国だからである。秀麗な山々にまわりをかこまれた国土、これこそが「畳(たたな)づく 青垣 山ごもれる」、ま秀(ほ)ろばの大和であった。北には奈良山、東には春日・高円山(たかまどやま)から三輪山につづく山々、そして南には吉野連山、西には金剛・葛城(かずらき)の山々がそびえ、その祝福の中に大和は栄えた。

 そして、この四方の中でもとり分けてわれわれの心をひくのが、南方にひろがる吉野であり、とり分けて目を奪うのが葛城連峰北端の二上山(ふたかみやま)であろう。実は、この二山には共通する性格がある。いずれも山の彼方に豊かな世界がひろがっている、ということだ。

 飛鳥から山をこえて吉野に入ったことのある人は、こんな大河を、あの多武峰や細川山――吉野前面の山々が隠していたのかと驚いたのではなかったろうか。その思いは万葉びとにとっても同じだったらしく、この山中の川に万葉びとは憧れつづけてきた。古くは持統(じとう)天皇の一行、後には聖武天皇の一行がしばしば吉野を訪れたのも、山の秘めた水への神聖視、清浄観によるものだったと思われる。しかも、この観念は十分に古かったから、歴史を湛(たた)えた、壮麗なものですらあった。

 神話によると吉野には尾のある人が泉をかがやかせていたり、岩石を押し分けて出て来たりしたという。異形の者が棲(す)む、ふしぎの異界が吉野であった。この異界は生命の根源の世界でもあったろうか。そう考えなければ古人大兄(ふるひとのおおえ)とか大海人皇子とかいった逃亡者(エギザイル)が、きまってここへ入りこむ意味がとけない。政治上の失脚者は、ここで死と再生との通過儀礼をへて、ふたたびうつし世にでることを願ったのではなかったか。

 死と再生といえば、もう一つの二上山が連想される。いうまでもなく大津皇子という悲劇の皇子が山頂に葬られているからだが、死んだ大津は、聖山の山上に鎮まることによって、命を聖山にかえて蘇生することとなった。その心意をみごとによんだのが、姉、大来皇女(おおくのひめみこ)の、

うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む(『万葉集』巻2-165)

であろう。

 しかし、大和がわから見て二上の秘める世界は、大津の悲話ばかりではない。山ごしの彼方(かなた)に、万葉時代よりもう一つ古い過去がただよっている。広くは河内の古代、狭くは近つ飛鳥の地、さらには推古・孝徳らの諸陵がある磯長(しなが)の、いわば「王家の谷」がそれである。多分に伝説的であるにせよ、私には蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の墳と伝えるものが印象的である。歴史的にはまず近つ飛鳥があり、次に大和の遠つ飛鳥があるのだから、順序は逆だが、今日大和に立って二上を見はるかすわれわれにとって、この山容を透かして想像される山ごしの世界を、忘れていることはできない。

 人間にとって山に接するという行為は、山の彼方を夢みるということであろうか。カール・ヴッセをもち出すのは、いささか陳腐なのだが。

phot 大津皇子 二上山墓(Wikipediaより)
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