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令和の典拠『万葉集』 中西進が語る「魅力の深層」【後編】新元号の「梅花の宴」言及部分(1/5 ページ)

» 2019年04月19日 07時30分 公開
[中西進ITmedia]

 新元号「令和(れいわ)」の典拠である『万葉集』に注目が集まっている。「令和」は万葉集の梅の花の歌三十二首の序文にある『初春の令月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす』から引用されたものだ。確認される限りにおいて、初めて漢籍ではなく日本の古典(国書)からの選定だとされている。

 本記事では万葉集研究の大家である国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏の著作『万葉を旅する (ウェッジ選書17) 』の第1部「万葉の古代空間」から、万葉集の魅力をあますところなくお届けする。中西氏本人による貴重な考察だ。後編では新元号にかかわる「梅花の宴」への言及部分も含めてお届けする。

 万葉集は7世紀後半から8世紀後半にかけての歌を中心に編まれた日本に現存する最古の和歌集だ。天皇、貴族だけでなく下級官人や防人、漁師、大道芸人などさまざまな身分の人々が詠んだ歌を4500首以上も集めている。その中には単身赴任のつらさ、中間管理職の悩みなど、その時代の人々の「仕事観」も垣間見ることができる。当時の人々が何を考えて生き、働いてきたかを知ることによって、現代に生きる私たちの生き方や働き方を見つめなおす機会としたい。

phot 令和は、大伴旅人(おおとものたびと)邸で開かれた「梅花の宴」で詠まれた和歌の序文が基になったとされる(霧山と開花梅、写真提供:ゲッティイメージズ)

人麻呂の妻恋い――石見

 『万葉集』は謎がいっぱいある歌集だが、柿本人麻呂ほど謎が多い歌人はいない。いつ、どこで生まれ、どのように生涯をすごして、いつどこで死んだか――。一切が不明である。 だからもう、人麻呂の生涯を復元するのはあきらめようではないか。人麻呂は石見へ行ったというから、行ったのだ。石見で死んだと書いてあるから石見で客死をとげたのである。

 そうすると、人麻呂にとって石見とは何であったのだろう。ここで人麻呂は妻と別れて上京したという。たしかに、別離の悲しみと重ね合わせられて、荒涼とした風景の展開するのが石見である。そもそも、イワミとは岩石にみちた海岸線の曲折を意味することばだから、土地柄としても別離の心とよく通じ合う所であった。

 この荒涼さは、人麻呂と妻が別れたばかりか、程なく死んだと語られることにおいて極まる。死までも呼び寄せてやまない荒涼さなのだ。

 人麻呂はこの死に臨んだ時も妻を想いやり、かりそめの別れが永遠の別れとなってしまったこと、それとも知らずに妻が待っているだろうことを嘆く。その時にも自分の死を「岩根(いわね)し枕(ま)ける」死だと歌う。行路の死の一般的な表現だとしても、ここではやはり石見の風景を忘れることはできない。

phot 石見(イワミ)とは岩石にみちた海岸線の曲折を意味する(写真提供:ゲッティイメージズ)
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